稲荷社
鎮座地 | 富山市茶屋町字表山283番地 |
祭神 | 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 七面大明神(しちめんだいみょうじん) |
祭礼 | 春祭り 4月18日 秋祭り 10月9日 |
由緒・沿革
江戸時代初期、寛永十六年(1639)の富山藩設置以前、この一帯は新川郡・婦負郡として加賀藩の統治下にあり江戸幕府は地方政治を見回る役人を諸国に派遣する制度をつくり、役人の通る道を「巡見使道」といった。
当時加州の郡奉行が巡視の帰途、峠の東側、北陸道五時谷の紅葉坂を登りきった時、奉行の鎗持ちをしていた「清左衛門」 という人が「何卒私に當所の山林を拝領仰付け下され候はば、此処に家を建て候て耕作支度候」と願い出た。
奉行は金沢の中納言(前田利常公)に窺いをたてたところ清左衛門の要望通り認可され寛永10年(1633)5月3日付で一町四方(約3600坪)の土地を下賜、山林の開墾と共に峠の街道沿に茶店(茶屋)を開き往還する旅人をもてなすよう命じた。
それから20余年後、万冶年代(1658~1660)に富山藩の老臣、奥村蔵人が藩祖(前田利次公)から紅葉坂南側の五時谷一帯の土地を拝領、明神山頂上近くに七面宮を建て、甲州(山梨県)身延山の七面大明神(当初は日蓮宗総本山久遠寺の守護神、のち法華経の守護神となる)と同型の木像を祀って礼拝、歴代藩主の手厚い庇護を受けた。
しかし、明治に入り廃仏毀釈で取り壊され、その後創建された当稲荷社に合祀され、「倉稲魂命」の祭神とともに、五穀豊穣、殖産振興、家内安全の氏神として崇敬されてきた。
平成27年3月・更新 呉羽山観光協会
茶屋町より左へ北陸道、右へ稲荷社、稲荷への途中にある案内標識