住吉神明社

住吉神明社の縁起

この神社は、天照大神と豊受大神を祀っており創建された年代が明らかでなく、もと住吉神社と言われた。富山県の歴史的伝承が記録された「肯構泉達録」によると次の話が残っている。
 11代垂仁天皇の頃、越の国に阿彦と言う大変乱暴な者が居て高慢にして人の上に立つことを好み、しだいに驕り自らを阿彦国主と名乗って法制禁令を出し人々を服従させていた。
 また越後に嫁いでいた阿彦の姉(支那夜叉と異命を持つ女)が夫殺害の企てから離縁され支那太郎と呼ぶ子供(猪熊を徒捕する力量まれなる子ども)を連れて阿彦の家に住みっき、悪行の種々を勧めた。
 阿彦は人々の財宝を奪い、人妻を盗み、そして田畑を荒らし、これを防ごうとする者を殺害した。人々は恐れ四方へ逃げ散っていた。


当時、太田郷、中地山に小城を構えていた椎摺彦(くにすきひこ)は、これを憂い制すれども阿彦が従わず、かえって岩峅に城柵を構え、盗賊を集めて椎摺彦を攻めた。勢い勝る阿彦に椎摺彦は、叶わず東の三谷の山中へ逃げ、そして早稲彦(はやねひこ)を大和の国、珠城宮に遣わし阿彦の乱暴を訴えた。
 これを聞いた垂仁天皇は、大若子命(おおわくこのみこと)に阿彦を討伐せよと標剣を与えた。
命勅を受けた大若子命は、ただちに京都、難波津を発ち越の筍飯浜(敦賀)に着いた。その時、越前の大野に猿田彦(さるたひこ)の血筋である婦負郡杉山のさるたじ佐留太舅と言う勇力気骨な者が命を受けて討伐に来ていると聞き、これから越中の国へ向かうが、海陸いずれが便利かと問うた。
 佐留太舅は、陸路は賊の妨げがあり海路にすべしと答え、珠洲の友人である近藤を寄せ大若子命を越中の岩瀬浜に着かせた。
 出迎えた椎摺彦の兄弟は、小竹野に住まいを作り大若子命を住まわせ阿彦の乱暴を事細かく申し上げた。
 大若子命は、佐留太舅らの加勢を受けて岩峅の阿彦を攻め立てたが、支那夜叉、支那太郎らの妖術に苦戦を強いられた。ある日、老婆が前に現れ、「むかし大己貴命(おおなむちのみこと)がこの地に降りられた時、鉾を捧げた武将を配置して属の妖術を平定された」。これに習って八将、八隊に分かち八節の旗竿に八掯布を八幡にして幡標とすれば、妖魔はただちに滅ぶべし。自らが八掯布、八折を裁ち縫って白幡八流を作り大若子命に差出し消えた。
 大若子命は、直ちに八節の竹を求めたが得る事が出来ず、その時、白鬚の翁が八竿の竹を担いで来て大若子命に与え「われ住吉の翁なり」と告げ去った。
 大若子命は、神の告げに従い八幡を挙げ阿彦を討つため八木山、岩峅を攻めた。支那太郎は、近藤に討たれ、他は佐留太舅に生捕され、ついに阿彦は討ち死にをした。
 大若子命は、小竹野の姉倉比賣神社の八幡兵法を教えて貰ったお礼に神社を造り替えその地を与えた。
 この住吉神社は、白鬚の翁が八竿の竹を担いで来て大若子命に与え「われ住吉の翁なり」と告げ去った神社であろう。今は住吉神明社と呼ばれている。
   平成二十三年七月 呉羽山観光協会


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