午の面地蔵尊

午の面(うまのつら)地蔵尊の由来

堂字内に安置されいるニ体の石仏は実は地蔵尊ではなく右は大日如来像、左は阿弥陀如来坐像で、ともに14世紀末から15世紀にかけての室町時代に作られたものである。
 このニ体の石仏は、昭和18年まで通称 午の面といわれる隣地の山頂にあり、オコリ(間欠的に高熱を発し強い寒けとふるえを伴う病気、マラリヤ性の熱病)落としの地蔵尊として近辺の人々の信仰な集めていた。
 大東亜戦争(第二次世界大戦)の勃発に伴い軍需工場(東亜特殊製鋼、後に東和産業となる)設立のため同地一帯が開発されるや、山頂にあった地蔵尊はもとより工事により出土Lた五輪塔の火輪などもいっしょに現在地に移された。
 戦後、工場跡地は宅地造成が進みすっかり様変りしたが、その間地蔵尊のことは人々から忘れ去られ、風雨にさらされて汚泥がこびりつき、一部は欠損するという状態であった。


前記軍需工場の2度にわたる火災、工場管理者の発病、近辺移住者の交通事故等、相次ぐ災害の発生に、若しや地蔵尊を粗末にした仏罰では……と信仰心の厚い人たちが放置されている地蔵尊に目を止め心を痛めていた。
 近年に至り町内(呉羽苑)有志の発議により堂宇建設の計画がなされ、資金が募られた。こうして昭和62年6月、現在地にこのような立派な堂宇が建立されたのである。これに関連し調査に当られた京田良志氏(石造美術研究家)の所見により次のことが判明した。
 向かって右のものは板碑(いたひ)といわれる石塔の上半分であり、正面に五輪塔の形を浮彫りにし、その水輪部に梵字(古代インドの文字)「バン」(金剛界大日如来の意味)の一字を刻む。左のものは光背状の石に阿弥陀如来坐像一体を浮彫りにする一石一尊仏といわれる石仏である。左右の2体はいずれも冒頭に述べたように室町時代の作と推定される。それぞれの石がん(石造の小堂)は古物の流用と考えられる。笠正面に右のものには「申」(さる)を左のものには「卍」(まんじ)を刻む、前者はもと庚申(こうしん)信仰(石碑を建て悪霊払いをしたならわし)と関係あるものを安置していたのであろ。(※石がん=龍の上に合うの文字)
 このように二体の石仏はいずれも地蔵尊ではないが長い間 土地の人々から「午の面の地蔵尊」と呼ばれ信仰されてきたので、あえて名称を変えないほうが自然である
 なお脇にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)(笠に特色のある石塔)の笠一個体五輪塔の火輪三個休、同空風輪一個体等の石塔部分は、堂字内の石仏より古く南北朝時代の作と推定させる。
 長い間静かに路傍にあって郷土の変遷を見てきたこの石仏こそ歴史の語部(がたりべ)である。
尚 原文は呉羽公民館長 酒井耕三氏により記されたものであります。厳しい自然と戦い且つ、融和し力強く生きた先人たちの 歴史風俗を伝え、英知と活力あるふるさとの観光を皆様と共に推進してまいります。
  昭和62年7月 呉羽山観光協会


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