古沢神明宮
「古沢神明社」は法尻山(ほじりやま)の中腹に鎮座していますが、もとは元禄の終わり頃(1690年代)、富山市(呉羽)高木の人達により、この辺り(字(あざ)上東野・字宮ノ山)の新田開発の成功を願って祀(勧請)(まつかんじょう)られた「高木神明宮」でした。ところが、溜池では水の不足をきたし開墾はしたけれど水田にはならず畠のままでした。
その後、宝永元年(1704)、富山古鍛冶町の古沢屋仁右衛門が呉羽丘陵西側南部一帯(古沢野)の畠を水田に作り直すため、山田川から引水するという新開願いを出しました。翌年(1705)二月、二代藩主前田正甫(まさとし)公から許可をもらい、まず古沢村をつくり、その翌年(1706)春より古沢用水が掘り始められました。そのときから「高木神明宮」は用水の守護神とされ、「古沢用水ホジリ宮」(牛ヶ首用水絵図に記載)と呼ばれていたようです。
文政元年(1818)三月、神社は高木村から譲渡されました。古沢村の「御高並用水守護神明宮」(おんたかならびようすいしゅごしんめいぐう)といい、ここに名実ともに当村の神社となったのです。
実は、金草にあった「速星神社」(宝永元年二代藩主正甫公により勧請)が古沢村の御高(田地)の守護神であったはずのところ、十三年前の文化二年(1805)二月、九代藩主利幹(としつよ)公により土代にある加茂堤(つづみ)「御鷹打場(おたかうちば)」の守護神とされ、富山城下の下金屋町(寺の鐘や火縄銃を製造)へ下げ渡されてしまいました。そこで高木村へ「持ち宮がないので譲ってほしい。」と交渉したのでした。
譲渡された年の九月六日、現在地(字宮ノ山)へ移転し、本殿は真新しく建て替えちれ、御遷宮の式典が盛大に行われたようです。この時より奉納相撲が始まりました。「法尻相撲」は遠く氷見や能登方面からも参加があり、花相撲・草相撲で盛況だったことが文献にも見られます。残念ながら、伝統あるこの相撲は、古沢用水土地改良区が発足する前年、昭和三十二年(1957)を以て終了しています。
明治の初め、「古沢神明社」と改称し、現在に至っています。
祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけおおみかみ)、御神体二体は安政四年(1857)の造営です。
現在の本殿は昭和五十五年(1980)の建て替え、拝殿は大正三年(1914)の建立です。
平成27年12月
呉羽山観光協会