呉服山 長光寺
本寺は、もと真言宗の寺院で『呉服山安寧坊』と称し、旧北陸街道の安寧坊坂(今、安養坊坂という)にあって壮麗なる伽藍が松林の間に甍をならべ、富山城下の西の鎮護にあたっていた。山号の『呉服山』は地名に因るものである。
富山平野の中央部に位置する呉羽山の名は、その昔、機織の技を伝えた渡来人「クレハトリ」に由来するといわれ、それに「呉服」や「御服」さらに「五福」などの文字があてられるに至った。また、『安寧坊』という寺号は呉羽山丘陵北東部の一部を指す「安養坊坂」の名に因り、かつては「安養」は「安寧」とも記された。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が佐々成政(1539~88年)討伐のために呉羽山に陣を敷いたが、成政は一戦も交えず秀吉に降伏し剃髪した。本寺の境内に成政の愛妾、早百合の墓が存するのはこの来歴にちなむものであろう。
その後、この地に移り寺号も宗派も改まり、現在の『呉服山長光寺』となった。寺宝の真宗大谷派第十二世教如上人(1558~1614年)の長光寺宛の消息から推して、江戸時代が始まる前後に真宗大谷派の寺になったことは確かである。
富山藩二代藩主前田正甫公(1649~1706年)は本寺の不動明王像を深く尊信して本寺を篤く遇した。寺宝に正甫公から贈られた歌の色紙がある。その歌は次の三首である。
年暮れし涙のつらら解けにけり 苔の下にも春や立つらむ
大あらきの森の下草生ひぬれど 駒もすさみず刈る人もなし
鳴くやただ穂先にまじるきりぎりす 秋の別れをさぞ嘆くらむ
早春・盛夏・晩秋の長光寺の情景を懐かしんで詠んだ頌歌(しょうか)であり、富山藩領内各宗寺院の首席を務めていた当時の本寺の威容がしのばれる
平成7年3月吉日 富山市教育委員会 呉羽山観光協会