杉谷の霊水由来
その昔狩猟の民が、この地の豊富な山の幸を糧とし、美しい明神池の水で潤い、安住の地とし、重厚な出雲大文化圏をここに築いた。やがて雄勢(※優勢)な大和王朝に攻められ、一族の皇子、建御名方命は明神池間近に神籬(ひもろき)を設け一族の子孫繁栄を宣(のたま)い白大蛇と化し池の地底に姿を消した。
そして不思議な事に神籬の下の岩が割れ湧水が溢れていた。人々は恐れ、恭順して神が照臨する岩として斎(いち)き祭った。(それが、今の若宮大明神)
それから二千有余年、今に変わることなく清冽な水が流れ出ている湧き出ずる清水は力の源、百薬の水、霊水として尊敬され 妙趣の効能を唱える人達は今もなお絶えない。
地上に墳丘が作られた初期からの古墳が杉谷丘陵に数多くある。
(一番塚古墳、二番塚、三番塚、四、五、六、七号等々)特に四号墳(四隅突出古墳)は島根県・安来市の仲仙寺古群とほぼ同時期に作られたもので、それに比べると約二倍の大きさがあり、この事からも出雲勢力の巨大な中心地であったと言われている。将来、日本の古代史を研究する貴重な資料となろう。
近世になり前田利次が杉谷山を鷹狩り、矢の訓練などの好適地として利用し、その折に飲料水として用い、勝れた水であるとして城まで持ち帰ったと言われている。そして前田利次が杉谷山に入山中は、住民に水の使用を禁じた事などから「殿様清水」と呼ばれるようになった。別名で、かに清水、つなぎ清水、蛇清水などとも言われた。
平成七年二月 呉羽山観光協会