海内果先生

海内果先生(嘉永3年~明治14年)
 久五郎の五男として生まれ、幼名を雪五郎と称した。
四人の兄たちは早世、独立したりしたので果が家を継ぐことになった。
幼少より田畑の手伝いをしながら漢学者の門下生として勉学するなど努力
明治4年22才で村肝煎となり村政を担当。
明治6年菁莪(せいが)小学校の創設に尽力された。
 明治8年東京日日新聞に寄稿、翌年
「人民は人権の元素タルの説」が一面に掲載される。
郷土相益社談、越中義塾の創立にもっとめ、民権思想の啓蒙に尽力している。
 論説記者として、明治9年上京し、14年4度目の帰郷の際に病気にかかり急死、わずか32才であったのが惜しまれる。
大隈重信、伊藤博文、木戸孝允、井上毅、安田善次郎、岩崎弥太郎とも交流があった。
   (老田郷土史より)
   呉羽山観光協会 中老田自治会
   平成21年12月


地図