追分茶屋と道標
追分茶屋は、古来からの北陸街道(富山、水戸田、戸出、今石動ルート)が呉羽丘陵(呉服山ともいった)の峠にかかる茶屋(峠茶屋、中茶屋、追分茶屋)の一地域で、養蚕や茶の生産が盛んに行われたところである。
江戸時代に高岡町(慶長14年・1609)が出来てから、この地から新たに高岡方面への街道(富山道、富山往還ともいう)が誕生した。
また、茶屋地域に村建てが許されたのは、富山藩が誕生(寛永16年・1639)した前後で、峠茶屋が寛永10年(1633)、追分茶屋が承応元年(1652)、中茶屋が万治3年(1660)とされる。
この三叉路に旅人のためにいくつか道標が建てられたが、現在残っているのが三基である。
一、道標地蔵 県道富山戸出小矢部線の山側にある地蔵堂に安置された地蔵。見ることはできないが右側の大きい地蔵の台座に「右ハ金沢道、左ハミと田道」と刻まれている。
二、自然石の道標 個人の庭にある自然石の道標。「西ミとたみち、向かづみち、東とやまみち」と刻まれている。
三、石柱道標 神明社前の鳥居脇に立っている。もともとこの場所に立っていたものではないが、「立山道」「小杉道」「城端水戸田道」と刻まれている。
呉羽山観光協会
※補注
四、神明社の鳥居脇に仮置きされていた道標は、平成24年10月、県道富山戸出小矢部線の高源寺前からから神明社に上がる細い道の入り口に建った。この道標は、建った場所から西へ少し行った県道富山戸出小矢部線(巡見上使道)の道路工事が行われたとき地中から発見された。四つの表面に「左 富山」右回りに「右 京 金」(沢が欠落)「左 井波」「中嶋六兵衛」と刻まれている