速星神社
速星神社の縁起について
この神社は「速星神社」(はやほしじんじゃ)といい、鍛冶の神でもあり農耕の神でもある「五十筒男命」(いわつつのおのみこと)が祀られている。
宝永元年(1704)7月、富山藩2代藩主前田正甫公により勧請され、現在、勧請祭文と鉄砲(火縄銃の銃身)が納められている。
藩主前田正甫公は、富山藩の財政を豊かにするため、新田開発や製薬などの産業振興に努めており、富山藩のもと鷹の餌とり場であった古沢から金草も開墾された。しかし溜池による灌漑のため水が不足し殆ど畠となっていた。そこで富山町の古沢屋仁右衛門が宝永元年山田川から水を引く「古沢用水開削」と畠を田んぼに直す「新開畠直」の許可を願い出て、同2年に許可をもらい同3年から工事に取り掛かった。
このことから正甫公は、新田開発(2000石)の成功を願い、金草御鷹場に農耕の神を祀る『速星神社』を創建した。「金草の宮」とも呼ばれた。
創建地は、新開地全域が見渡せる場所(北陸電力研修所の南東にあたる「字京平」)であり、管理は、藩士2人(餌差役)を神社付近(北陸電力研修所の西隣にあたる「字高山」)に住まわせ行った。
その速星神社は、文化元年(1804)のころ、富山藩(九代藩主利幹)の慣例(勧請100年目)により鉄砲製造の下金屋町鋳物師へ下げ渡され、下金屋町の「速星神社」となった。同時に現在地(旧古沢字三番金草9498番地)へ移転した。
下げ渡された速星神社は、下金屋町から派遣された金屋清右衛門が西金谷に住み管理に当たった。そして、御神鏡(現存)・御神体・拝殿を造営するなど大切に祀り伝えた。
ところが明治元年(1868)、速星神社は下金屋町から地元の金草村に譲り渡された。下金屋町では、戊辰戦争につながる動乱に巻き込まれ、氏子が離散し少なくなり、お守りができなくなったからと伝わっている。
金草村では、持宮であった「金草神明社」(元禄の頃勧請)を速星神社へ合祀し、金草村の「速星神社」とした。
その後、速星神社は、御神体の塗り替え、絵馬奉納、拝殿立替えなど金草の人々によりなされ大切にお守りされてきている。
なお、現在の本殿は、金屋清右衛門が明治12年4月(1879)友坂熊野神社の旧社殿を譲り受け移築されたもの、また拝殿は平成11年に新しく建て替えられたものである。
平成26年3月更新 呉羽山観光協会