願海寺の七曲り
願海寺の七曲りはいつ頃出来たか定かではないが、戦国時代の天文年間(1532~1552)に一つの城をめぐって造られたという。
当時、この道筋に願海寺城という平城があり、その城を守るためにわざわざ道幅を狭め曲がりくねった道を造った(越中戦国紀行より)という説や、佐々成政が敵の軍勢の備えを予知するために造らしめた(越中遊覧誌より)という説がある。
江戸時代に入ると参勤交代の制(寛永12年1635)が布かれ、全国各地の主要道が整備された。この頃の七曲りはかっての軍略的な意味を待った道路ではなく、商人や旅人の往来で賑わい、俳句や民話に登場する情感の漂う道であった。
「よけて行く 稲つけ馬や 沼田道」(字白)
「秋の日に 曲がりかかるや 願海寺」(句空)
元禄十三年(1700)、「草庵集」に載った句である。
幕末から明治初期にかけて、七曲りにはニつの大きな歴史的絵巻が繰り広げられた。
一つは、慶応四年(1868)三月、諸候の軍勢1500人を率いた北陸道鎮撫軍総督・高倉三位永祐の大行列である(舟竹家御小休所跡)。「鎮撫使の先頭は赤地に白丸の菊の御旗を真っ先に立て、随従諸候の家々の馬印の旗が続くのが願海寺村の中に見え出した」(鎮撫使御指添日記より)と隣村に出迎えていた富山藩士・森田三郎が記す。
二つは、明治十一年十月(1878)、天皇旗を先頭に重臣・近衛兵等800人余りを従えた明治天皇の北陸巡幸である。(佐崎家御小休所跡)。この巡幸の際、農民の米の調整作業を七曲り(今のJR北陸線と接する)付近で行い、天皇に暫くの間ご高覧いただいたという。
七曲りを通った二つの歴史的大行列の様相は、まさに想像を絶する壮観さであったろう。
呉羽山観光協会
※補注 天文年間は1532/2/6-1555/10/23